与太話

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【書評・感想】姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』の「カ、イ、カ、ン」

姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』という小説がある。
80年代の風俗に詳しいならば、
「カ、イ、カ、ン」
という薬師丸ひろ子主演の映画、セーラー服と機関銃のセリフを思い出すだろう。

『ツ、イ、ラ、ク』の粗筋をかいつまむと、田舎町で教師(河村)と教え子の女子中学生(隼子)が、「ヤって、犯って、ヤって・・・・・・・(108回繰り返し)」な話。
官能小説?もちろんそれとしての使用もできなくはないと思うし、著者曰く、恋愛小説、超児童小説、スラップスティックコメディ、群像劇など様々なカテゴライズをされた小説である。しかし、とりあえずここでは、二人の「恋愛」を軸に話を進める。まあ、やってることはセックスに尽きるんだけど。

結論をまず言うと、色や恋というのは倫理とか道徳とか理性とか常識とか、更には当事者の何かまでを破壊するとてつもなく危険な行為である。
社会の目的が、生殖=遺伝子・財産の継承の安全を、構成員の大多数が合意できる形で保障することであり、そこから外れると罰せられる。罰がなければ「社会」が 維持できないからだ。かつての武家社会ならば妻の不義密通は切り捨て御免とか、今なら児ポ法とか刑法の強姦罪とか重婚罪とか。姦通罪は既に廃止されてい る。
昔から色恋に付き物であった駆け落ち(社会的自殺)や心中(物理的自殺)などは、そういった規範からの逃走、あるいば自罰といえよう。

規範には逸脱が織り込み済みであるから、明示的であれ暗示的であれ罰がある。罰が構成員全体に共有されているから、罪になり、そして(困ったことに)罪だから甘い。少なくとも他人からすれば、刺激的で下世話な好奇心が刺激されるテーマとなる。
では、色恋の当事者にとって、それは甘いのか?

ここでタイトルに立ち返ろう。

『ツ、イ、ラ、ク』
「カ、イ、カ、ン」
(※ 以下カッコ部分は本筋に関係がないので読み飛ばしてもよい。なぜガンマニアの多くが男性であるかというと、他者を圧倒する銃器は、リビドーの攻撃性を象徴 する、つまり男根であり、射撃が射精の快楽に類似するものである、といったとても通俗的な説明を読んだことがある。なお私はフロイドの精神分析などに詳し くはない。更にいうと、多くの社会において、力を行使するのが男性であるということも関係するだろう。「男性」は力への志向を課せられているジェンダーであるからだ。
この話を膨らませると、戦闘機などのノーズアートにピンナップや、最近の自衛隊では萌え絵が描かれており、一方で私の知る限りでは、イデオロギー的に女性兵士が多くいたソ連など共産国の軍隊においてはこういっ たカルチャーが見られないことの意味などについても関係するかもしれない。興味深いテーマであるが別の記事に譲る)

墜落と快感。より直接的に言うならば、墜落の快楽。
彼らは社会の重力、すなわち規範(「〜であるべき」)によって墜落する。
そして自由落下している者は、その最中に重力を主観的には感じない。

この無重力状態がこそが、色恋の快感である。

規範や倫理、道徳、世間体といった外的な秩序と完全に並立する色恋だって世の中にはあるだかもしれないが、表現するからには、それらからの逸脱がなければ価値がない。葛藤もない。色恋をテーマにしたものに限らず、そういった表現にどれだけの価値があるだろうか?

(しかしこれはラストシーンで完全に放り出されることになるわけだけど。その飛距離がこの小説の最大の魅力)


作品の舞台となる長命市は京都近くの、「午前にタクシーを使っただけで、誰それが贅沢をしたことが知れ渡る」ほどには閉鎖的な片田舎だ。その中で様々なキャラクタが、それぞれの考え、偏見、性欲、傲慢、美徳、嫉妬によって社会を作る。そこだけで完結した箱庭のような社会で、完全な逸脱が起こる。

 

詳しい物語については省くが、ラストシーンについて。ネタバレなので色を反転。

田舎町で決別した2人が、20年後に「偶然」、たまたま、都会で再会し、熱烈なキスする場面で終わる。

隼子34歳、河村43歳。互いに独身。このキスに逸脱の快感はあるのだろうか?2人は墜落しているのだろうか?

ラストシーンで、これまで積み上げてきた「墜落」と「快感」を全て放り投げて、フィクションとしての予定調和、しょうもないメロドラマへ着地する。

最後の数行を引用する。

 

「忘れられなかった。どんなに忘れようとして、ずっと」

女は泣き続けた。

「いまさら何」

いまさら。いまさら何。しゃくりあげてくりかえし、女は男にしがみついた。

もちろん、このあとは電気イス級の激しいキスである。河村の口にもめちゃくちゃに口紅がつくのである。それが恋というもの。

 『ツ、イ、ラ、ク』姫野カオルコ 角川文庫 pp.528-529

それはありきたりなお話、つまらないお話、そこらに転がる普通の恋。

それだけのことだ。

だからこそこの小説は読み飛ばし、笑い飛ばすべきである。下らない、陳腐な、三文小説だ。しかし恋なんて、規範や論理やらの立派なお題目を前にしたら、どんなに壮大なものであっても、下世話、破廉恥、反逆的なものでしかない。そして他人からしたら、心中しようが、末永く幸せに暮らそうが、話のネタでしかない。だからこそ何事よりも尊いのだ。

「とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」と夏目漱石が書いている通りである。

とにかく、それが恋というもの。

 


私は『セーラー服と機関銃』を観たことはないし、これからも観ない。多分。

 

関連

夏目漱石『こころ』 (読んだ)

上野千鶴子「恋愛病の時代」(流し読みした気がする)

菊地成孔feat.岩澤瞳「普通の恋」(CD持ってる)

 


Amazon.co.jp: ツ、イ、ラ、ク (角川文庫): 姫野 カオルコ: 本

 

リンクを紹介しようと思ってamazonで「ツイラク」と検索したら、御巣鷹山事故犠牲者の身元確認に従事した医師の手記である『墜落遺体』がヒットした。これも読んだことがあるが印象的だった。ショッキングな題材であるからかもしれないが、真摯な姿勢というか。

ちなみに今は『読んだことのない本について堂々と語る方法』を読んでいる。そのうちこれについても書きたい。